風が通る場所 初版

風が通る場所 -静かなる再生-

プロローグ

風が通る場所

朝の四時半。

まだ夜の名残が残っている時間だった。

高木修一は、目を開けたまま天井を見ていた。
最近、こんな朝が多い。

眠れないわけではない。
ただ、途中で目が覚める。
そして、そのまま眠れなくなる。

枕元の時計を見る。
四時三十二分。

昔なら、もう一度眠れた。
仕事があった頃は、むしろ目覚ましが鳴っても起きたくなかった。

今は違う。

時間はある。
ありすぎるほどある。

それなのに、眠れない。

布団の中で寝返りを打つ。
胸の奥が、少し固い。

息を吸う。

思ったほど空気が入らない。

浅い。

昔からこんな呼吸だったのか。
それとも、最近こうなったのか。

自分でもよくわからない。

退職してから三ヶ月が経っていた。

四十年近く勤めた会社を離れるとき、同僚たちは笑顔で送り出してくれた。
花束と、記念品と、ねぎらいの言葉。

「これからは、好きなことをしてください」

誰もがそう言った。

だが、高木はまだ
好きなことを思い出していない。

朝になると散歩に出る。
本を読んでみる。
テレビを見る。
ニュースを見ては、社会のことを考える。

だが、どれも
どこか借り物の時間のようだった。

信号の前で立ち止まると
ふと、思う。

──自分は、これから何者なんだろう。

会社員でもない。
役職もない。
部下もいない。

だからといって、
何か新しい肩書きが欲しいわけでもない。

ただ、
自分の輪郭が、少しぼやけている。

そんな感じがする。

高木は布団から出た。

キッチンで水を一杯飲む。
窓を開けると、早朝の空気が入ってきた。

冷たい。

だが、悪くない。

遠くで新聞配達のバイクの音がした。
まだ街は静かだ。

この時間、
世界は誰のものでもない。

高木は、ゆっくり息を吐いた。

少しだけ、呼吸が通った気がした。

その日の午前。
高木は散歩の途中で、細い路地に入った。

今まで通ったことのない道だった。

古いビルの一階。
小さな看板が出ている。

ラウンジ「余白」

控えめな文字だった。

その下に、小さく書いてある。

身体を整える場所

それだけだった。

治療院とも書いていない。
サロンとも書いていない。

高木は立ち止まった。

扉はガラスで、中が少し見える。
明るすぎない照明。
木の椅子。
窓際に植物。

誰かが静かに話している。

不思議なことに、
その場所は何かを呼び込んでいる感じがした。

誘うわけでもない。
引き止めるわけでもない。

ただ、そこにある。

高木はしばらく看板を見ていた。

人生には、
ときどき

説明のつかない扉がある。

理由もなく
立ち止まる扉。

高木はそのとき、まだ知らなかった。

この小さなラウンジが、
自分の人生を大きく変えるわけではないことを。

だが、

少しだけ
風の通り道を作ることを。

そして人は、

ほんの少し風が通るだけで
もう一度、自分の人生へ戻っていけることを。

そのことを。

高木は、扉を開けた。

第一章 扉の向こうの静けさ

扉を開けると、鈴の音は鳴らなかった。

高木は少し驚いた。
店というものは、たいてい入った瞬間に何か音がするものだ。
だがここは、音がなかった。

その代わり、静かな空気が流れていた。

病院ほど張り詰めていない。
喫茶店ほど賑やかでもない。

木の床に、淡い光が落ちている。

窓が一つあり、その近くに観葉植物が置かれていた。
小さな丸いテーブルと椅子が三つ。
奥にはベッドが二台見える。

どこか、居間のようでもあり、
どこか、知らない場所のようでもあった。

「どうぞ」

声がした。

振り向くと、男が立っていた。
四十代くらいだろうか。
白衣は着ていない。
グレーのシャツに、ゆったりした黒いパンツ。

落ち着いた目をしている。

「初めてですよね」

高木は少し戸惑った。

「ええ……」

男は微笑んだ。

「ここ、見つけにくいですから」

高木は看板の方を思い出した。

「散歩していて……たまたま」

「そういう方、多いです」

男は椅子をひとつ引いた。

「よかったら、座ってください」

高木は腰を下ろした。

不思議なことに、
ここでは急ぐ必要がない気がした。

男が聞いた。

「今日はどうしました?」

高木は少し考えた。

痛みがあるわけではない。
どこか悪いとも言えない。

「……眠りが浅くて」

自分でも、ずいぶん曖昧な理由だと思った。

だが男は頷いた。

「最近、多いですね」

「そうなんですか」

「季節の変わり目もありますし、
生活のリズムが変わると呼吸が浅くなる人も多いです」

呼吸。

高木は今朝のことを思い出した。

胸の奥の、あの感じ。

男は言った。

「少し身体を触らせてもらってもいいですか」

強い勧誘のようなものはない。
ただ自然な提案だった。

高木は頷いた。

ベッドに横になる。

天井の木目が見える。

男――藤本悠は、高木の肩に手を置いた。

押すわけではない。
ただ触れている。

しばらく、そのままだった。

高木は少し不思議に思った。

藤本の手が、ゆっくり背中をなぞる。

さする。

布を整えるような、柔らかな動きだった。

その指の中に、
かすかに金属の感触があった。

高木が言う。

「それ……磁石ですか?」

藤本は笑った。

「ええ。小さいものです」

背中をゆっくりなぞる。

「血の流れを少し助けるくらいのものです」

特別な説明はしない。

何度か背中をさすると、
胸の奥がふっとほどけた。

「……あ」

高木は小さく声を出した。

「呼吸、入りましたね」

藤本が言う。

高木は自分でも驚いた。

さっきより
空気が深く入る。

胸の奥まで。

藤本は、また静かに背中をなぞる。

「身体って、ちょっと通るだけで変わるんです」

治療のような言い方ではない。

ただ、事実を話すように言った。

「整うと、人は勝手に動き出します」

高木は天井を見たまま聞いた。

「……どこへ」

藤本は少し考えた。

そして言った。

「その人の人生の方へ」

店の外を、誰かが歩いていく足音がした。

遠くで車が一台通る。

風が窓を揺らした。

藤本は手を離した。

「今日はこれくらいにしておきましょう」

高木はゆっくり起き上がった。

不思議だった。

体が軽いわけではない。

だが、
胸の奥が少し広い。

藤本が言う。

「ここは治す場所じゃないんです」

高木は見る。

藤本は穏やかに続けた。

「整える場所です」

そして、少し笑った。

「名前の通りですね」

高木は店内を見渡した。

ラウンジ「余白」。

その名前が、
さっきより少しわかる気がした。

藤本は湯のみを差し出した。

白湯だった。

高木はゆっくり飲む。

体の奥に温かさが広がる。

沈黙があった。

だが、それは気まずい沈黙ではない。

外から、風が入る。

そのとき扉が開いた。

「お、今日は早いね」

明るい声がした。

六十代後半くらいの男が入ってきた。

軽い足取りだった。

藤本が言う。

「坂井さん」

男は高木を見て、にこりと笑った。

「初めての方?」

高木は少し緊張して頷いた。

男は椅子に座りながら言う。

「ここね、不思議な場所なんですよ」

藤本が笑う。

坂井は続けた。

「常連になりそうで、ならない」

高木は聞く。

「どういうことですか」

坂井は窓の方を見た。

風が入ってくる。

そして言った。

「ここ、通り道なんですよ」

藤本がうなずく。

「ずっといる場所じゃないです」

坂井が笑う。

「風みたいに、通る場所」

高木はその言葉を聞いた。

そして、
胸の奥で何かが少し動いた。

自分の人生も、
どこかで止まっていると思っていた。

だが、もしかしたら。

少し、
風が通ればいいのかもしれない。

そのとき高木はまだ知らない。

この場所が、
人生を変えるわけではないことを。

ただ、

ほんの少し
風を通すだけだということを。

そして人は、

それだけで
また歩き出せることを。

第二章 名前のない会話

ラウンジ「余白」は、時間の流れ方が少し違う気がした。

高木が最初に来てから、一週間ほどが過ぎていた。

毎日来るわけではない。
だが、散歩の途中で気が向くと、自然にあの路地へ足が向く。

通り過ぎることもある。
立ち寄る日もある。

それくらいの距離が、ちょうどよかった。

その日の午後、ラウンジには三人の男がいた。

坂井健一。
初日に会った、あの明るい男。

窓際に座り、新聞を折りたたんでいる。

その隣には、細身の男がいた。
グレーのジャケットに眼鏡。
静かな目をしている。

もう一人は、椅子に浅く腰掛け、脚を組んでいる。
スポーツバッグが足元に置かれていた。

坂井が高木に気づく。

「お、こんにちは」

高木は軽く頭を下げた。

「どうも」

坂井は嬉しそうに言う。

「この人、高木さん。先週から来てる」

それだけの紹介だった。

役職も、経歴も言わない。

眼鏡の男が軽く会釈する。

「石田です」

低い声だった。

脚を組んでいた男が笑う。

「森川です。散歩仲間みたいなもんです」

坂井が指を差す。

「藤本さんに捕まった人たち」

藤本が奥から言う。

「捕まえてませんよ」

全員が少し笑う。

高木は椅子に座った。

坂井が聞く。

「今日はどうです、呼吸」

高木は少し考える。

「……前よりは」

坂井は満足そうに頷く。

「それで十分」

森川が言う。

「呼吸ってね、意外と浅い人多いですよ」

森川は肩を回した。

「俺もそうだった。昔、走ってるのに息が入らなくて」

高木が聞く。

「スポーツされてたんですか」

「いや、ただの運動好きです」

森川は笑う。

「でもね、体って不思議ですよ」

指で机を軽く叩く。

「ちょっと通ると、急に楽になる」

その言い方が、藤本に似ていると高木は思った。

石田が静かに言った。

「身体は正直ですからね」

その声は低く、落ち着いていた。

「頭は嘘をつくけれど」

坂井が笑う。

「石田さん、たまに難しいこと言うんですよ」

石田は少し笑った。

「難しいですか」

坂井は言う。

「いや、面白い」

その会話は、どこへ向かうわけでもなかった。

政治の話でもない。
仕事の話でもない。

ただ、言葉がゆっくり行き来する。

坂井が言う。

「ここ、いいでしょ」

高木は窓の外を見る。

細い路地に、風が通っている。

「……静かですね」

坂井は頷いた。

「それがいいんです」

そして、少し声を落とす。

「会社って、音が多かったでしょう」

高木は苦笑した。

たしかにそうだった。

電話。
会議。
メール。
報告。

いつも何かが鳴っていた。

坂井が続ける。

「ここ、音が少ないんですよ」

森川が言う。

「だから眠くなる」

藤本が奥から言う。

「寝てもいいですよ」

坂井が笑う。

「それが許される場所」

そのとき、扉が開いた。

細身の男が入ってきた。

コートを着ている。
手には古い本。

坂井が手を振る。

「田辺さん」

男は静かに頷いた。

「こんにちは」

坂井が高木を指す。

「新しい人」

田辺は柔らかく笑った。

「田辺です」

椅子に座ると、本をテーブルに置く。

森川が覗き込む。

「また古本?」

「ええ」

田辺は言う。

「静かな本が好きなんです」

坂井が笑う。

「静かな本ってなんですか」

田辺は少し考えた。

そして言う。

「読んでいると、呼吸がゆっくりになる本」

高木はその言葉を聞いた。

呼吸。

最近、この言葉をよく聞く。

藤本が白湯を持ってくる。

湯気がゆっくり上がる。

田辺が言う。

「ここも似てますね」

坂井が聞く。

「なにが」

田辺は窓の外を見る。

「呼吸がゆっくりになる場所」

少し沈黙があった。

だが、誰もそれを埋めようとしない。

高木は気づいた。

ここでは、会話に目的がない。

結論もない。

名前もない。

ただ、人の言葉が行き来する。

それだけだ。

石田がふと、高木を見る。

「退職されたんですか」

高木は少し驚いた。

「……ええ」

石田は頷く。

「最初は空っぽになりますね」

坂井が言う。

「俺もそうだった」

森川も言う。

「俺も」

高木は笑う。

少し安心した。

石田は続けた。

「でも、空っぽは悪くない」

坂井が聞く。

「どういうこと」

石田は窓の外を見る。

風が入ってくる。

そして言った。

「空いてると、風が通る」

その言葉は
静かに部屋の中に落ちた。

高木はその言葉を聞きながら、
胸の奥を感じた。

まだ完全ではない。

だが、

少し
通っている気がする。

そのとき藤本が言った。

「そろそろ少し整えますか」

高木は頷いた。

ベッドに横になる。

藤本の手が背中に触れる。

強く押さない。

ただ、ゆっくりさする。

指の中の小さな磁石が
背中をなぞる。

森川が言う。

「それ、気持ちいいんですよ」

坂井が笑う。

「通る感じするよね」

藤本は静かに言う。

「身体は、つながると楽になります」

背中をなぞる。

呼吸が入る。

高木は天井を見る。

少し前より
空気が深く入る。

ラウンジ「余白」には
特別なことは起きない。

だが、
言葉と呼吸と風が

静かに行き来している。

そのことが、

高木の中の何かを
少しずつ動かしていた。

第三章 少し歩幅を狭くして

その日、高木はラウンジを出てから少し遠回りをして帰った。

特別な理由はない。
ただ、歩く速度が少し変わっていた。

路地を抜けると、大きな通りに出る。
車が行き交い、人の足取りも早い。

その流れに入ると、
さっきまでの静けさが嘘のようだった。

だが、不思議なことに、
高木は急ごうという気持ちにならなかった。

胸の奥に、少し余裕がある。

呼吸が深い。

それだけで
世界の見え方が変わるのかもしれない。

信号で立ち止まる。

隣に若い会社員がいた。
スマートフォンを見ながら、忙しそうに指を動かしている。

その姿を見て、高木は少し前の自分を思い出した。

昼休みでも
メールを返し
会議の資料を確認し
常に何かに追われていた。

あの頃は
それが当たり前だった。

いや、

それが
自分の価値だと思っていた。

信号が変わる。

人の流れが一斉に動く。

高木も歩き出した。

だが、
ほんの少し歩幅を狭くした。

急ぐ必要がない。

そう思った。

すると、
街の音が少し違って聞こえる。

風の音。
遠くの電車。
カフェから流れる音楽。

今まで、
こんな音を聞いていただろうか。

高木はふと笑った。

自分は長い間、
街を通り過ぎるだけだったのかもしれない。

その夜。

夕食のあと、テレビを見ていた。

ニュース番組だった。

元同僚の会社の名前が出た。

新しい事業の話だった。

画面には、知っている顔が映っていた。

かつて同じフロアで働いていた男だ。

高木より、五歳ほど若い。

「次期役員候補」と紹介されていた。

高木はリモコンを持ったまま
少し固まった。

胸の奥が、
少し重くなる。

比較。

気づくと、頭の中で計算が始まる。

あいつはまだ現役だ。
役職も上がっている。

それに比べて自分は――

そこで、高木は止まった。

最近、ラウンジで聞いた言葉が浮かぶ。

坂井の声。

「それで十分」

森川の声。

「体って通ると変わる」

そして石田の言葉。

「空いてると、風が通る」

高木はテレビを消した。

窓を開ける。

夜の空気が入ってくる。

少し冷たい。

高木はゆっくり息を吐いた。

深く吸う。

胸が広がる。

以前より
空気が入る。

完全ではない。

だが、
確かに変わっている。

高木は思った。

人生は、
急に変わるものではない。

だが、

ほんの少し
通るだけで

違う道が見えることがある。

翌朝。

高木は散歩に出た。

同じ道を歩く。

同じ街。

だが、
今日は違うことをしてみた。

歩幅を、
少し狭くする。

すると、
呼吸が楽だった。

森川が言っていたことを思い出す。

「歩き方って、人生と似てるんですよ」

高木はそのとき意味がわからなかった。

だが、今は少しわかる気がする。

急ぐと、息が浅くなる。

少し歩幅を狭くすると
呼吸が通る。

そのときだった。

後ろから声がした。

「おーい」

振り向くと、森川だった。

ジャージ姿で、手を振っている。

「散歩ですか」

高木が言う。

森川は笑った。

「歩きの練習」

「練習?」

森川は頷く。

「歩くの、意外と下手な人多いんですよ」

高木は苦笑した。

「自分もそうかもしれません」

森川は隣に並んだ。

「ちょっと見ててください」

森川は歩きながら言う。

「歩幅、少しだけ小さくする」

高木はやってみた。

「そう、それ」

森川が言う。

「呼吸、入るでしょ」

本当にそうだった。

胸が楽だ。

森川は続ける。

「人生も似てるんですよ」

高木が見る。

森川は前を向いたまま言う。

「急ぎすぎると、息できない」

少し沈黙があった。

風が吹く。

森川は笑う。

「まあ、俺も最近気づいたんですけどね」

高木は少し笑った。

二人はしばらく歩いた。

朝の光が街に広がる。

遠くに駅が見える。

人の流れが動き始めている。

そのとき高木は気づいた。

以前より
世界が少し広い。

何かを手に入れたわけではない。

だが、

何かが
通っている。

それは
まだ小さな風だった。

だが確かに、

高木の中を
通り始めていた。

第四章 空いているから、風が通る

その日、高木は午後にラウンジ「余白」を訪れた。

外は少し暖かく、路地の空気も柔らいでいる。
扉を開けると、いつもの静けさがあった。

坂井はいない。
森川もいない。

窓際の椅子に、石田隆が座っていた。

テーブルの上には湯のみと、開いた本。
だが、読んでいる様子ではない。

窓の外を見ていた。

高木が入ると、石田は軽く目を上げた。

「こんにちは」

「どうも」

高木は椅子に座る。

しばらく二人は何も話さなかった。

ラウンジでは、こういう時間が自然に流れる。
誰も急いで会話を作ろうとしない。

藤本が奥から出てきた。

「高木さん、今日はどうですか」

高木は少し考える。

「呼吸は……前より楽です」

藤本は頷いた。

「いいですね」

それ以上、何も言わない。

高木は白湯を受け取る。

湯気がゆっくり上がる。

石田が言った。

「少し変わりましたか」

高木は苦笑した。

「そんな気がします」

石田は頷く。

「身体が先に変わることがあります」

高木は聞いた。

「身体が?」

石田は湯のみを手に取る。

「頭より、先に」

少し沈黙があった。

高木は窓の外を見る。

路地を風が抜ける。

その様子を見て、石田が言った。

「退職すると、多くの人が空っぽになります」

高木は小さく笑う。

「まさに今、それです」

石田は静かに言った。

「会社は、尺度をくれますから」

高木はその言葉に頷いた。

役職。
年収。
評価。

いつも何かの物差しがあった。

それが消えると、
自分が測れなくなる。

石田は続ける。

「人は、測れないと不安になります」

高木は言う。

「それで……何か新しいことを始めようとする」

石田は少し笑った。

「そうです」

そして、ゆっくり言った。

「でも、それは急ぎすぎることも多い」

高木は聞く。

「急ぎすぎる?」

石田は窓の外を見る。

風が植物の葉を揺らした。

「空っぽは悪くないんです」

その言葉は
前にも聞いた。

石田は続ける。

「空いていると、風が通る」

高木はその言葉を静かに聞いた。

石田は少し間を置いて言う。

「人は、詰め込みすぎると動けなくなる」

手を軽く広げる。

「予定も、役割も、責任も」

高木は思い出した。

会社のスケジュール帳。

会議で埋まったページ。

空白はほとんどなかった。

石田は言う。

「退職すると、急に空白ができる」

そして、静かに続けた。

「それを怖がる人が多い」

高木は頷いた。

まさに自分だった。

石田は湯のみを置いた。

「でも」

少し声を柔らげる。

「空白は、風の通り道でもある」

高木はその言葉を聞きながら、
胸の奥を感じていた。

まだ少し固い。

だが、
以前より広い。

藤本が言う。

「高木さん、少し整えますか」

高木はベッドに横になった。

藤本の手が背中に触れる。

強く押さない。

ゆっくりと、
背中をさする。

指の中の小さな磁石が、
布越しに背中をなぞる。

石田がその様子を見て言う。

「藤本さんの手は面白いですね」

藤本は笑う。

「面白いですか」

石田は頷く。

「押さない」

藤本は言った。

「緩めて、つないで、整えるだけです」

高木の背中をなぞる。

呼吸がゆっくり広がる。

藤本は続ける。

「身体は、整うと勝手に動き出します」

高木は天井を見る。

藤本が少し声を落とす。

「治すというより」

少し間を置く。

「その人が、自分を使える状態に戻す」

高木はその言葉を聞いた。

自分を使う。

その言葉が胸に残る。

藤本は手を離した。

「今日はこれくらいで」

高木はゆっくり起き上がる。

窓の外を見る。

風が通る。

石田が静かに言った。

「比較は、人を疲れさせます」

高木は少し驚く。

石田は続ける。

「会社では必要なこともあります」

だが、と言ってから、

「人生には必要ないことも多い」

坂井がいないラウンジは
少し静かだった。

石田は窓を見たまま言う。

「人は、比較を降りると楽になります」

その言葉は
説教ではなかった。

ただ、事実を述べるようだった。

高木はゆっくり息を吸う。

空気が入る。

以前より
深く。

石田が言った。

「人生は競争だけではありません」

そして少し笑った。

「散歩みたいなものです」

高木は笑った。

その言葉は
森川の歩き方の話にも似ていた。

少し歩幅を狭くする。

すると呼吸が通る。

石田は言う。

「急がなくてもいい」

高木は窓の外を見る。

路地を風が通る。

その風は、
どこにも留まらない。

ただ通る。

そのとき高木は、
初めて思った。

人生は
何かを埋めることではなく、

もしかすると

少し空けることなのかもしれない。

そうすると、

風が通る。

そして人は、
また歩き出せる。

静かに。

自分の速度で。

第五章 役に立たない午後の価値

午後三時。

ラウンジ「余白」は、いちばん静かな時間だった。

昼の客は帰り、
夕方の人が来るには少し早い。

窓から柔らかい光が入っていた。

高木が扉を開けると、
田辺亮がテーブルに座っていた。

相変わらず本を読んでいる。

古い装丁の本だった。

藤本は奥で何かを整えている。

田辺が顔を上げた。

「こんにちは」

高木は軽く会釈した。

「どうも」

高木は椅子に座る。

田辺は本にしおりを挟んで閉じた。

「今日は散歩ですか」

「ええ」

高木は窓を見る。

「この時間、静かですね」

田辺は笑った。

「いい時間です」

そして言った。

「役に立たない時間ですから」

高木は少し笑う。

「役に立たない」

その言葉は、少し引っかかった。

会社では
そんな時間は許されなかった。

会議。
報告。
計画。

すべては
何かの成果につながる時間だった。

田辺は湯のみを持つ。

「会社にいると、全部意味のある時間になります」

高木は頷く。

「そうですね」

田辺は続ける。

「でも、人間は」

少し言葉を探す。

「役に立たない時間がないと、壊れる気がします」

高木はその言葉を聞いた。

田辺は本を軽く叩く。

「この本も、役には立たない」

高木が聞く。

「何の本ですか」

「随筆です」

田辺は言う。

「昔の人の日常を書いたもの」

高木は少し意外だった。

「それ、面白いんですか」

田辺は静かに笑った。

「呼吸がゆっくりになります」

高木はその言葉を聞いて、
ふと気づいた。

ここでは
みんな呼吸の話をする。

藤本もそうだった。

森川も。

石田も。

田辺は続ける。

「面白いというより」

少し窓を見る。

「安心するんです」

高木は聞く。

「何に」

田辺は言った。

「人間って、ずっと頑張らなくていいんだって」

その言葉は
静かに落ちた。

高木は少し考えた。

四十年。

頑張ることが
当たり前だった。

役に立つこと。

成果を出すこと。

期待に応えること。

それが
人生だと思っていた。

田辺は言う。

「退職すると、多くの人が焦ります」

高木は笑う。

「しますね」

田辺は頷いた。

「何かしないといけない」

高木は言う。

「まさにそれです」

田辺は窓の外を見る。

路地を風が通る。

「でも」

ゆっくり言う。

「何もしない時間って、実は大事なんじゃないかと思うんです」

高木は聞く。

「どうしてですか」

田辺は少し考えた。

そして言った。

「人は、余白で自分を思い出す」

その言葉に、高木は少し驚いた。

余白。

この場所の名前。

田辺は続ける。

「予定が詰まっていると」

指で机を軽く叩く。

「自分の声が聞こえない」

高木は黙って聞いていた。

田辺は笑った。

「ここ、いい場所ですね」

高木は頷く。

「そうですね」

そのとき藤本が来た。

「高木さん、少し整えますか」

高木はベッドに横になる。

藤本の手が背中に触れる。

強く押さない。

ゆっくりさする。

指の中の小さな磁石が、
背中をなぞる。

藤本は言う。

「今日は肩より」

少し背中をなぞる。

「ここですね」

胸の下あたりだった。

高木は呼吸をする。

すると
空気が深く入る。

藤本は言う。

「ここが通ると、呼吸が変わります」

田辺が見ている。

「本当ですね」

藤本は笑う。

「身体は単純です」

そして続ける。

「整うと、勝手に動きます」

高木は天井を見る。

胸が広い。

藤本は言う。

「焦らなくていいですよ」

その声は穏やかだった。

「人は、整うと自然に何か始めます」

高木はその言葉を聞いた。

始める。

何か。

だが今は

それを急がなくていい気がした。

ベッドから起き上がる。

窓を見る。

午後の光。

静かな時間。

田辺が本を開く。

藤本は何も言わない。

会話もない。

だが高木は思った。

この時間は
役に立たないかもしれない。

だが

この時間があるから
人は

また
自分の人生へ戻れるのかもしれない。

ラウンジ「余白」には

何かを与える人はいない。

だが

少し整える人と
少し話す人と
静かな時間がある。

それだけで

風が通る。

そして人は

また歩き出す。

自分の速度で。

第六章比べてしまう日

その日は、朝から空気が重かった。

特別な理由があるわけではない。
だが、目を覚ましたときから、胸の奥が少し固かった。

高木は窓を開けた。

いつもの朝の空気。
いつもの街。

それでも、何かが違う。

呼吸をしてみる。
入ることは入る。

だが、少し浅い。

高木は苦笑した。

「こんな日もあるか」

最近、ラウンジに行くと呼吸が楽になる。
歩くのも楽だ。

だが、毎日が同じではない。

そういうことも、少しわかってきた。

朝の散歩をしていると、駅の前に出た。

通勤の人たちが歩いている。

スーツ姿。
速い足取り。
スマートフォンを見ながら歩く人。

高木はその流れを見ていた。

つい三ヶ月前まで、
自分もその中にいた。

そのときだった。

「高木さん?」

声がした。

振り向くと、男が立っていた。

スーツ姿。

背が高く、姿勢がいい。

高木はすぐに思い出した。

「……西村」

元同僚だった。

高木より少し若い。
会社では営業部門で成果を上げていた男だ。

西村は笑った。

「久しぶりですね」

「そうだな」

西村は時計を見た。

「もう会社には来ないんですよね」

言葉は軽かった。

だが、その言葉の奥にあるものを
高木は感じてしまう。

西村は続けた。

「今、忙しいですよ」

笑いながら言う。

「新しい事業が始まって」

高木は頷いた。

「ニュースで見た」

西村は嬉しそうに言う。

「結構大きいプロジェクトなんです」

少し沈黙があった。

通勤の人たちが二人の横を通り過ぎていく。

西村が言う。

「高木さん、今何してるんですか」

その質問は自然だった。

だが、高木は答えに少し詰まった。

何をしているのか。

散歩。
ラウンジ。
白湯。
呼吸。

それをどう説明すればいいのか。

高木は言った。

「まあ……ゆっくりしてる」

西村は笑った。

「いいですね」

だが、その声には
どこか距離があった。

「じゃあ、また」

西村は軽く頭を下げて歩いていった。

その背中は、
仕事の速度で歩いていた。

高木はしばらく立っていた。

胸の奥が、
少し重くなる。

さっきまで通っていた呼吸が
また浅くなる。

比較。

気づくと、頭の中で声が始まる。

西村はまだ現役だ。
忙しく働いている。

それに比べて自分は――

高木は歩き出した。

だが、足取りが少し重い。

街の音も、さっきとは違って聞こえる。

信号の音。
車の音。
人の話し声。

すべてが少し遠い。

高木は思った。

やっぱり自分は、もう外れた人間なのかもしれない。

そのまま歩いていると、
いつもの路地に出た。

ラウンジ「余白」の看板が見える。

高木は立ち止まった。

今日は行く気にならない。

理由はわからない。

だが、
なんとなく入りづらい。

高木はそのまま通り過ぎた。

家に帰る。

午後、テレビをつける。

ニュースが流れる。

また仕事の話。
企業の話。
社会の話。

高木はテレビを消した。

部屋が静かになる。

その静けさが、
今日は少し重かった。

ソファに座る。

ふと、森川の言葉を思い出した。

「歩き方って人生と似てる」

石田の言葉も思い出す。

「空いてると、風が通る」

田辺の言葉も。

「役に立たない時間がないと、人は壊れる」

だが今日は、
その言葉が少し遠い。

高木は窓を開けた。

風が入る。

深く息を吸う。

まだ浅い。

高木は思った。

人は
一度整ったからといって

ずっと整っているわけではない。

また崩れる。

また戻る。

たぶん、それの繰り返しだ。

夕方。

高木は少し散歩に出た。

特に目的はない。

ただ歩く。

路地に入る。

気づくと、
ラウンジの前に来ていた。

看板が見える。

ラウンジ「余白」。

高木は少し迷った。

だが、扉を開けた。

中には坂井がいた。

「お」

坂井が言う。

「今日は遅いね」

高木は少し笑った。

「そうですね」

坂井は椅子を指した。

「座りなよ」

高木は座る。

坂井は何も聞かなかった。

少しして言った。

「今日は風、強かったね」

高木は窓を見る。

風が通る。

坂井が続けた。

「こういう日、あるよ」

高木は聞いた。

「何がですか」

坂井は笑った。

「比べちゃう日」

高木は驚いた。

坂井は肩をすくめる。

「俺もある」

そして言う。

「でもね」

窓の外を見る。

「それでも風は通る」

高木は少し息を吸った。

空気が入る。

さっきより深い。

藤本が奥から出てきた。

「高木さん」

穏やかな声だった。

「少し整えますか」

高木は頷いた。

今日は、
少し整えた方がいい気がした。

ベッドに横になる。

藤本の手が背中に触れる。

ゆっくりさする。

磁石が背中をなぞる。

呼吸が少しずつ広がる。

藤本は言う。

「大丈夫ですよ」

静かな声だった。

「人は、また通ります」

高木は天井を見た。

胸の奥に
少し風が戻ってきた。

今日はまだ弱い。

だが確かに、

また通り始めていた。

第七章 風は通り、留まらない

春が少し進んでいた。

路地の空気がやわらかい。
ラウンジ「余白」の窓の外では、小さな葉が風に揺れている。

高木が扉を開けると、坂井がいつもの席に座っていた。

「お、こんにちは」

「こんにちは」

坂井は湯のみを持ち上げた。

「今日は顔色いいね」

高木は少し笑う。

「そうですか」

「うん。呼吸が入ってる顔」

そんな顔があるのか、と高木は思った。

だが、最近は確かに違う気がする。

胸の奥が、前ほど詰まっていない。

藤本が奥から出てきた。

「高木さん、散歩ですか」

「ええ」

藤本は頷いた。

「いいですね」

坂井が言う。

「森川はさっき帰ったよ」

「そうですか」

「歩きすぎたらしい」

二人は少し笑った。

そのとき、扉が開いた。

見慣れない男が入ってきた。

五十代半ばくらいだろうか。
少し緊張した様子だった。

藤本が言う。

「どうぞ」

男はゆっくり中に入る。

坂井が立ち上がった。

「こんにちは」

男は少し戸惑いながら言う。

「初めてで……」

藤本が穏やかに言う。

「大丈夫ですよ」

男は椅子に座った。

しばらく沈黙があった。

高木は、その様子を見ていた。

少し前の自分を見ているようだった。

男が言う。

「最近、眠れなくて」

藤本は頷く。

「呼吸、浅くなっていませんか」

男は少し驚く。

「……そうかもしれません」

坂井が笑う。

「ここ、そういう人多いんですよ」

男は少し安心したようだった。

藤本が言う。

「少し身体を触らせてもらってもいいですか」

男は頷いた。

ベッドに横になる。

藤本の手が背中に触れる。

ゆっくり、さする。

高木はその様子を見ていた。

指の中の小さな磁石が
布越しに背中をなぞる。

藤本は言う。

「血の流れを少し助けます」

男は静かに呼吸をする。

藤本が言う。

「無理に吸わなくていいですよ」

少し背中をなぞる。

「吐ければ十分です」

しばらくすると、男の肩が少し下がった。

藤本が言う。

「呼吸、入りましたね」

男は驚いたように言う。

「……本当だ」

その声は少し軽かった。

高木はその様子を見ながら思った。

少し前の自分も
同じだった。

坂井が男に言う。

「ここ、治す場所じゃないんですよ」

男が聞く。

「そうなんですか」

坂井は窓を指す。

「通る場所」

男は首をかしげる。

坂井は笑う。

「風みたいに」

その言葉を聞いて、高木は少し微笑んだ。

最近、その意味がわかる。

人はここに住むわけではない。

ここに依存するわけでもない。

少し整えて、
また外へ戻る。

坂井が高木に言う。

「最初はね、みんな居つきそうになる」

高木は笑う。

「そうかもしれません」

坂井は言う。

「でも、それ違うんだよ」

窓を見る。

風が入る。

「風って、通るから気持ちいい」

少し間を置く。

「止まると、空気になる」

藤本が笑った。

「それ、名言ですね」

坂井は肩をすくめる。

「今思いついた」

高木は窓を見る。

風が通る。

たしかに、
ここは通る場所だ。

自分も、
ここに留まる必要はない。

ただ、
通るだけでいい。

藤本が言う。

「高木さん」

「はい」

「少し整えますか」

高木はベッドに横になる。

藤本の手が背中に触れる。

ゆっくりさする。

磁石が背中をなぞる。

呼吸が広がる。

藤本が言う。

「最近、身体の動きが変わってきました」

高木は聞く。

「そうですか」

藤本は頷く。

「整うと、人は自然に外へ向きます」

高木は天井を見た。

外へ向く。

たしかに最近、
歩く距離が少し増えた。

街の見え方も変わった。

藤本は言う。

「人は、整うと」

少し間を置く。

「自分を使い始めます」

その言葉が胸に残った。

ベッドから起き上がる。

窓の外を見る。

路地に光が落ちている。

新しく来た男は、
少し軽い顔をしていた。

坂井と話している。

名前のない会話。

結論のない言葉。

それでも
人は少し軽くなる。

高木は思った。

ここは特別な場所ではない。

だが、

風が通る。

それだけで

人は
また歩き出せる。

そしていつか、

自分も誰かに
同じことを言うのかもしれない。

「風は通りますよ」

と。

第八章 もう一度、街へ

朝の光が、少し強くなってきていた。

高木は家を出て、いつもの道を歩いていた。
歩幅は、以前より少し小さい。

急ぐ必要がない。

呼吸をすると、胸の奥まで空気が入る。

完全ではない。
だが、前とは違う。

駅前の通りに出る。

通勤の人たちが歩いている。

スーツ姿。
速い足取り。
電話をしながら歩く人。

高木はその流れを見ていた。

以前は、そこに自分もいた。
今は、少し外から見ている。

不思議なことに、
それを寂しいとは思わなかった。

ただ、世界が違って見える。

信号で立ち止まる。

隣に若い会社員がいた。

ネクタイを少し緩めて、
スマートフォンを見ている。

その姿を見て、高木は思った。

ああ、
自分もあんな顔をしていたのかもしれない。

信号が変わる。

人の流れが動く。

高木は少し遅れて歩き出した。

急がない。

歩幅を少し小さくする。

すると呼吸が楽だ。

森川の声が思い出される。

「歩き方って、人生と似てるんですよ」

高木は少し笑った。

駅の前を過ぎて、
小さな公園に入る。

ベンチに座る。

風が吹く。

春の匂いがする。

高木は深く息を吸った。

そのとき、近くで声がした。

「すみません」

振り向くと、年配の女性が立っていた。

少し困った顔をしている。

「この近くに、いい整体とかありますか」

高木は少し驚いた。

「整体ですか」

「最近、肩が重くて」

女性は苦笑した。

「病院ほどでもないんですけど」

高木は少し考えた。

頭に浮かぶ場所は一つしかない。

ラウンジ「余白」。

だが、
どう説明すればいいのか少し迷った。

女性が言う。

「どこかありますか」

高木はゆっくり言った。

「あります」

女性が顔を上げる。

「小さいところですけど」

少し笑う。

「身体を整える場所です」

女性は頷いた。

「いいですね」

高木は公園の外を指した。

「あの路地をまっすぐ行くと」

女性は聞く。

「整体ですか」

高木は少し考えた。

そして言った。

「ラウンジです」

女性は少し不思議そうな顔をした。

高木は続ける。

「身体を少し整えて」

少し言葉を探す。

「呼吸が通る場所です」

女性は笑った。

「呼吸」

高木は頷いた。

「通ると、楽になります」

女性は礼を言った。

「行ってみます」

そして歩いていった。

高木はその背中を見ていた。

不思議な気持ちだった。

自分が
誰かに場所を紹介する。

少し前の自分なら
考えなかったことだ。

高木は立ち上がる。

公園を出る。

少し歩くと、
いつもの路地が見える。

ラウンジ「余白」の看板。

高木は立ち止まった。

今日は入らなかった。

理由はない。

ただ、
今日はその必要がない気がした。

風が路地を抜ける。

高木は深く息を吸った。

空気が入る。

以前より、
ずっと深い。

高木は歩き出した。

駅とは反対の方向へ。

街は広い。

まだ行ったことのない道がある。

そのとき高木は思った。

人生は
終わったわけではない。

ただ、
少し速度が変わっただけだ。

歩幅を少し狭くする。

呼吸が通る。

それだけで
世界は少し広くなる。

ラウンジ「余白」は、
特別な場所ではない。

だが、

風が通る場所だった。

そして人は、

ほんの少し風が通るだけで
また自分の人生へ戻っていける。

高木はゆっくり歩いた。

急ぐ必要はない。

人生第二部は、
まだ始まったばかりだった。

後記

この小説は、派手な出来事がほとんどありません。

大きな成功も、
劇的な奇跡もありません。

ただ、

人が少し立ち止まり
身体を整え
呼吸を取り戻し

また歩き出す。

その静かな変化を書きました。

現代は刺激の多い時代です。

競争。
比較。
情報。

その中で、多くの人が疲れています。

しかし人間は、本来

それほど複雑な生き物ではありません。

呼吸が通り
身体が整い
人と少し話す。

それだけで、
人はもう一度歩き出せます。

この物語が、

読んだ人の中に
小さな風を通すことができたなら

それ以上嬉しいことはありません。


登場人物

高木修一
60歳。会社を退職したばかり。
役割を失った不安の中で、ラウンジ「余白」に出会う。
身体と呼吸を整えることで、人生第二部を歩き始める。

藤本悠
ラウンジ「余白」の施術者。
治すのではなく「緩めて、繋いで、整える」ことを信条としている。
磁気を用いた穏やかな施術で身体の流れを整える。

坂井健一
元企画部門。人を自然につなぐ人物。
場の空気を軽くし、人が息をしやすくなる距離を作る。

石田隆
思索的な人物。
比較から降りる人生の視点を高木に示す。

森川誠
身体感覚を大切にする男。
歩くことの意味を高木に教える。

田辺亮
文化好きの読書家。
役に立たない時間の価値を知る人物。


著者紹介

矢崎俊一

鍼灸マッサージ師。
30年以上にわたり、多くの人の身体と向き合ってきた。

身体を治すことよりも
整えることを大切にし、

呼吸、歩行、生活習慣、身体感覚を通して
人が自分の人生を取り戻すことを支援している。

磁気を用いた身体調整や
生活の整え方を通して、

「比較に疲れない生き方」
「自分の速度で生きる人生」

を伝えている。

本書は、
その思想から生まれた初めての小説である。

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